「恵み」と書かれた切符
皆さんの周りに
あんなに偉大なことをどうやってのけて来たんだろうと
不思議にさえ思える人はいるでしょうか。
どこから、あんな力が湧いて来るんだろう、と。
もう数世紀昔のように感じますが
私が聖書学校の学生時代に耳にした
ある教授の言葉を思い出します。
「日々、神の恵みは届けられている。
人は明日どんな試練や問題が押し寄せるかは予測できない。
しかし、神は知っておられる。
今日、神を信頼し、信じることで
どんな大変なことでも、それに向き合えるように
必要な恵みで満たして下さるのだ。
欲しいとき、必要なときにはいつでも
その恵みを求めれば良い。
けれども、その恵みというものは
どんなに頭をひねってみても
試練の真直中にいるときにだけしか理解できないのだ」と。
試練の渦中で
実際、神がどんな方法で助けて下さるのか
普段の日常では何とも想像がつかないものです。
けれども真摯に助けを求めるときに
神様は耐えられるだけ、乗り切れるだけの
恵みの切符を確かにお与えになるようです。
すでにキリストという賜物を下さった神が
人の世の試練を乗り切るために
恵みを惜しんで与えられないはずがないと思えてきます。
ちょうど最近手に取っていた本「Running Scared」。
著者は Dr. エドワード・ウェルチ。
「私にとって明日も新しい恵みがあると知ることで
今ある心配事や恐れに明らかな違いが生まれる。
恵みを遮る目の前の障壁は
言い換えると自分のイメージという限られた領域で
勝手に神を小さくしてしまっているようなものである。
未だ見ぬ恵みを自分が想像できるわけがない」。
ウェルチ氏は
「キリストをお与えになったほどの神を知るときに
時にかなったものを与えて下さると
信頼できるようになるのだ」と言います。
イエスが福音書で「子が魚を求めているのに
父は石を与えるはずがない。
あなたがたの天の父は御霊を下さらないはずがあろうか」
と語られているように。
「神の与える恵みを発見するとき
日常といわれる目まぐるしい時間を
たった独ぼっちで過ごしているわけではないのだと
はっきりと気がつく。
神はあなたのすぐそばにおられ
独り子キリストに確信を置くすべての子らに
日々、今も働きかけておられる」。
そしてこう続きます
「恵みを受け取ると、ふと思う。
何度、恵みをそれだと気がつかずに
感謝することさえ忘れていたことか」。
また音楽家として世界的に著名な
J.S. バッハの生涯を引用しています。
バッハの作品の冒頭にはよく「S.D.G.」と書かれています。
Deo Gloria 「Solely to the glory of God」
「唯一の栄光の神」の頭文字の略。
楽譜中「J.J.」とも書かれています。
「助けたまえ、イエス」のJesu Juban 。
ウェルチ氏が最後にこう締めくくっています。
「私もバッハに習い
一日を『主よ、私を助け、恵みを与えたまえ』と
祈りを持って始め『一日に感謝』と終えようと努めている」。
神の恵みは私たちに分りやすい方法で
示される訳では必ずしもありません。
想像の範囲外の領域を司っておられる方。
数日後、数年後さえコントロールできない私たちは
所詮、先の善し悪しを判断できる程の力はないのです。
神様が本来デザインされたあなたの人生
それを成就する力
始められた計画を終わらせるのも神様です。
それを証明し
その恵みにいつでもアクセスできるように
キリストは十字架に架かって下さったのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
参照「Running Scared - fear, worry and the God of rest 」 by Edward T. Welch
あんなに偉大なことをどうやってのけて来たんだろうと
不思議にさえ思える人はいるでしょうか。
どこから、あんな力が湧いて来るんだろう、と。
もう数世紀昔のように感じますが
私が聖書学校の学生時代に耳にした
ある教授の言葉を思い出します。
「日々、神の恵みは届けられている。
人は明日どんな試練や問題が押し寄せるかは予測できない。
しかし、神は知っておられる。
今日、神を信頼し、信じることで
どんな大変なことでも、それに向き合えるように
必要な恵みで満たして下さるのだ。
欲しいとき、必要なときにはいつでも
その恵みを求めれば良い。
けれども、その恵みというものは
どんなに頭をひねってみても
試練の真直中にいるときにだけしか理解できないのだ」と。
試練の渦中で
実際、神がどんな方法で助けて下さるのか
普段の日常では何とも想像がつかないものです。
けれども真摯に助けを求めるときに
神様は耐えられるだけ、乗り切れるだけの
恵みの切符を確かにお与えになるようです。
すでにキリストという賜物を下さった神が
人の世の試練を乗り切るために
恵みを惜しんで与えられないはずがないと思えてきます。
ちょうど最近手に取っていた本「Running Scared」。
著者は Dr. エドワード・ウェルチ。
「私にとって明日も新しい恵みがあると知ることで
今ある心配事や恐れに明らかな違いが生まれる。
恵みを遮る目の前の障壁は
言い換えると自分のイメージという限られた領域で
勝手に神を小さくしてしまっているようなものである。
未だ見ぬ恵みを自分が想像できるわけがない」。
ウェルチ氏は
「キリストをお与えになったほどの神を知るときに
時にかなったものを与えて下さると
信頼できるようになるのだ」と言います。
イエスが福音書で「子が魚を求めているのに
父は石を与えるはずがない。
あなたがたの天の父は御霊を下さらないはずがあろうか」
と語られているように。
「神の与える恵みを発見するとき
日常といわれる目まぐるしい時間を
たった独ぼっちで過ごしているわけではないのだと
はっきりと気がつく。
神はあなたのすぐそばにおられ
独り子キリストに確信を置くすべての子らに
日々、今も働きかけておられる」。
そしてこう続きます
「恵みを受け取ると、ふと思う。
何度、恵みをそれだと気がつかずに
感謝することさえ忘れていたことか」。
また音楽家として世界的に著名な
J.S. バッハの生涯を引用しています。
バッハの作品の冒頭にはよく「S.D.G.」と書かれています。
Deo Gloria 「Solely to the glory of God」
「唯一の栄光の神」の頭文字の略。
楽譜中「J.J.」とも書かれています。
「助けたまえ、イエス」のJesu Juban 。
ウェルチ氏が最後にこう締めくくっています。
「私もバッハに習い
一日を『主よ、私を助け、恵みを与えたまえ』と
祈りを持って始め『一日に感謝』と終えようと努めている」。
神の恵みは私たちに分りやすい方法で
示される訳では必ずしもありません。
想像の範囲外の領域を司っておられる方。
数日後、数年後さえコントロールできない私たちは
所詮、先の善し悪しを判断できる程の力はないのです。
神様が本来デザインされたあなたの人生
それを成就する力
始められた計画を終わらせるのも神様です。
それを証明し
その恵みにいつでもアクセスできるように
キリストは十字架に架かって下さったのです。
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参照「Running Scared - fear, worry and the God of rest 」 by Edward T. Welch