私の二人の子どもたちは長男が10歳、長女は9歳になりました。
この頃、子どもたちからの質問が今まで以上に頻繁です。たいてい、「パパ、この言葉ってどんな意味?」程度です。けれども中には返答に困る質問も増えてきました。
先日のことです。
「ねえ、人間って神様よりも偉いの?」と娘が聞いてきました。
この質問に答える前に、どうしてそういう質問をしてみたくなったかを知りたくなりました。すると「パパの本のタイトルに書いてあるじゃない!」。
私が読んでいる本の題名に引っかかってコメントを求めて来たのでした。
邦訳は出版されていませんが、その本のタイトルは「When People are Big and God is Small」。
直訳すると、「神が見えない時に人が偉く見える」となるでしょうか。
。。。どう答えるべきかと一瞬考えてしまいました。 この世の中には神様が存在している。けれども色んな周りのことであくせくして神様が毎日の中で見えなくなってしまっている。
このタイトルの指すことを説明することはできますがこの言葉をそのまま伝えても彼女には今ひとつピンと来ないかもしれません。娘は幼いときから神様を信じています。
おそらく彼女はそのような視野でこの世の中を見始めているのでしょう。
「私が信じるこの世界を創ったスゴい神様は私の身近にいる」。。。
そのような観念を持っている娘には「人は神様よりも偉い」というタイトルに
彼女なりの違和感があったのでしょう。
近 所のいじめっ子よりも小さくて頼りない神様を神様とは呼べる訳がありません。私は娘の質問に率直に答える前に、もうちょっと話す時間を待とうと思いまし た。人よりも大きな神様が存在していることを信じながら、この世の中と関わりを失うことなく、現実的なバランスを保っていけるように。
実際、神様を信じていなくてもこの世の中で生きて行くことは可能です。
9歳の娘にはとてつもない規模の理解力を要するのです。ゆっくりと、彼女との対話を深めていくのが楽しみです。
何 気ない娘の質問から、私は「ゴスペル=グッドニュース=福音=いいお知らせ」をどのように解りやすく説明したらよいのかを今までと違った視点で考え始めま した。その意味と大切さを日常の中で知ることがないならば人が大きくてしょうがなく見える毎日をただひたすらに繰り返しながら人生を過ごしていくことにな ります。
私たちは人の評価に敏感です。自分がどう評価されているかが自然と気になってしまいます。その上、そんな他人からの評価によって しか自分の価値を判断できなくなってしまいます。そして人の期待に応えることができない自分をダメな人間だと決めてしまう。人と人の意見が自分の中で必要 以上に占拠していくのです。
ゴスペル ーいいニュースとは何なのでしょう。
その中身を理解し、日常生活の中で確認することによって人の視線に振り回されていた不安定な心にあるバランスがもたらされるのです。人の意見に耳を傾けながらも、その声が自分の価値を判断する唯一の基準ではなくなるのです。
そして神様が自分に向けるまなざしを知ることができます。それは確実で明白な声です。人ではなく神様は私をどう見ておられるのか。その視点を持つことで今までの視点の角度が変わるのです。
大 学時代、仲の良かった友人がキリスト教に関心を持ち始めました。それは彼にとっては重大な決断を要することでした。ユダヤ人として、厳格なユダヤ教徒であ る両親に育てられた彼がキリスト教徒になるというのは家族の激しい反発を買うことであり、家族だけではなく親族からも勘当されることを意味していました。 けれども彼は福音を知るにつれて、自分自身が精神的に和らいでゆくのを感じました。
一番彼が興味を持ったのは、その「いいニュース」を自 覚した時に自分と自分を取り巻く状況に見いだせなかった「変化」に気づき始めたというのです。福音を理解するということは、これまでになかったある見方を 文字通り身に「付ける」、「着ける」、そして「浸ける」ことです。それは人生に新しい視野をもたらします。
「世界はすべて神様の手の中 に」というキッズゴスペルソングがありますがその歌詞の通り、神様があなたの人生の中で大きな存在になっていく時に恐れや不安が小さくなり、神様が中心に おられるのを体験するでしょう。世界は秩序なく回り続けているのではなくこの世の中心にいて下さる方を信じることで、安らぎを得ることができるのです。人 の評価がすべてではありません。神様がその秩序を保ち、私たちがこの場にいることも偶然の出来事ではないと信じることができるのです。
聖書の言葉を読み、理解を進める時に私たちの精神の奥深いところで、状況に左右されない平安を知るでしょう。
「静まって私が神であることを知れ」。 詩篇 46篇10節
私たちが人から受け入れてもらおうとしたり、人の賞賛を追うことから退き神様から自分への評価というベクトルを持った時に、初めて私たちの精神が静まるのです。それには、私たちの予想を超えた「よいお知らせ」を知ることから始まるのです。
それはどんなお知らせなのでしょうか。次回をお楽しみに!
先日のことです。
「ねえ、人間って神様よりも偉いの?」と娘が聞いてきました。
この質問に答える前に、どうしてそういう質問をしてみたくなったかを知りたくなりました。すると「パパの本のタイトルに書いてあるじゃない!」。
私が読んでいる本の題名に引っかかってコメントを求めて来たのでした。
邦訳は出版されていませんが、その本のタイトルは「When People are Big and God is Small」。
直訳すると、「神が見えない時に人が偉く見える」となるでしょうか。
。。。どう答えるべきかと一瞬考えてしまいました。 この世の中には神様が存在している。けれども色んな周りのことであくせくして神様が毎日の中で見えなくなってしまっている。
このタイトルの指すことを説明することはできますがこの言葉をそのまま伝えても彼女には今ひとつピンと来ないかもしれません。娘は幼いときから神様を信じています。
おそらく彼女はそのような視野でこの世の中を見始めているのでしょう。
「私が信じるこの世界を創ったスゴい神様は私の身近にいる」。。。
そのような観念を持っている娘には「人は神様よりも偉い」というタイトルに
彼女なりの違和感があったのでしょう。
近 所のいじめっ子よりも小さくて頼りない神様を神様とは呼べる訳がありません。私は娘の質問に率直に答える前に、もうちょっと話す時間を待とうと思いまし た。人よりも大きな神様が存在していることを信じながら、この世の中と関わりを失うことなく、現実的なバランスを保っていけるように。
実際、神様を信じていなくてもこの世の中で生きて行くことは可能です。
9歳の娘にはとてつもない規模の理解力を要するのです。ゆっくりと、彼女との対話を深めていくのが楽しみです。
何 気ない娘の質問から、私は「ゴスペル=グッドニュース=福音=いいお知らせ」をどのように解りやすく説明したらよいのかを今までと違った視点で考え始めま した。その意味と大切さを日常の中で知ることがないならば人が大きくてしょうがなく見える毎日をただひたすらに繰り返しながら人生を過ごしていくことにな ります。
私たちは人の評価に敏感です。自分がどう評価されているかが自然と気になってしまいます。その上、そんな他人からの評価によって しか自分の価値を判断できなくなってしまいます。そして人の期待に応えることができない自分をダメな人間だと決めてしまう。人と人の意見が自分の中で必要 以上に占拠していくのです。
ゴスペル ーいいニュースとは何なのでしょう。
その中身を理解し、日常生活の中で確認することによって人の視線に振り回されていた不安定な心にあるバランスがもたらされるのです。人の意見に耳を傾けながらも、その声が自分の価値を判断する唯一の基準ではなくなるのです。
そして神様が自分に向けるまなざしを知ることができます。それは確実で明白な声です。人ではなく神様は私をどう見ておられるのか。その視点を持つことで今までの視点の角度が変わるのです。
大 学時代、仲の良かった友人がキリスト教に関心を持ち始めました。それは彼にとっては重大な決断を要することでした。ユダヤ人として、厳格なユダヤ教徒であ る両親に育てられた彼がキリスト教徒になるというのは家族の激しい反発を買うことであり、家族だけではなく親族からも勘当されることを意味していました。 けれども彼は福音を知るにつれて、自分自身が精神的に和らいでゆくのを感じました。
一番彼が興味を持ったのは、その「いいニュース」を自 覚した時に自分と自分を取り巻く状況に見いだせなかった「変化」に気づき始めたというのです。福音を理解するということは、これまでになかったある見方を 文字通り身に「付ける」、「着ける」、そして「浸ける」ことです。それは人生に新しい視野をもたらします。
「世界はすべて神様の手の中 に」というキッズゴスペルソングがありますがその歌詞の通り、神様があなたの人生の中で大きな存在になっていく時に恐れや不安が小さくなり、神様が中心に おられるのを体験するでしょう。世界は秩序なく回り続けているのではなくこの世の中心にいて下さる方を信じることで、安らぎを得ることができるのです。人 の評価がすべてではありません。神様がその秩序を保ち、私たちがこの場にいることも偶然の出来事ではないと信じることができるのです。
聖書の言葉を読み、理解を進める時に私たちの精神の奥深いところで、状況に左右されない平安を知るでしょう。
「静まって私が神であることを知れ」。 詩篇 46篇10節
私たちが人から受け入れてもらおうとしたり、人の賞賛を追うことから退き神様から自分への評価というベクトルを持った時に、初めて私たちの精神が静まるのです。それには、私たちの予想を超えた「よいお知らせ」を知ることから始まるのです。
それはどんなお知らせなのでしょうか。次回をお楽しみに!