私は映画鑑賞が趣味です。
とは言っても、しばらく映画館に行って
映画を見るということはしていません。
どちらかと言うと、真っ昼間よりも、夜、落ち着いてゆっくりと見たいのです。
子どもたちが寝床に就く頃、近くの映画館の最終上映開始時間と重なってしまいます。
時間が許す時は、寝る前に何かのストーリーを読むよう
子どもたちとの固い約束を交わしているので、このところはおあずけ状態が続いているのです。
その代わりに、子どもたちが寝静まった頃を見はからって
DVDを楽しむことが多くなりました。
迫力こそ大画面には劣りますが、好きな時間にスタートできるのが好都合です。
つい昨晩、マット デイモン主演の「アジャストメント」という映画を鑑賞しました。
ずっと気にかかっていた作品です。
それは教会に関わる仕事の中で、立ち止まって考えることの多い
「神こそが人生の過程を決定する」というテーマに触れていたからです。
ストーリーの出だしはこうです。
「神」がマット デイモン扮するデイビッドの人生の計画を握っている。
その「神」の定めているコースから外れてしまうと
神は天使である部下を遣わすのです。
実際の天使のイメージとはほど遠い、スーツに帽子という出で立ちの天使でした。
iPadのようなノートパソコンを片手に、デイビッドの現在位置を確認し
そして軌道修正をするのです。
神の計画から逸れた何かの間違った選択をすると
彼らがその方向を正しに来るのです。
ご想像の通り、デイビッドは大いにそのコースを外し
神の計画には記されていないバレリーナの少女に近づいて行くストーリーが展開されます。
そこで部下は躍起になって二人を離れさせようとするのですが、、、。
。。。ストーリーを明かすのはこの辺で止めましょう。
皆さんの楽しみをこれ以上奪わないことにします。
思うに、デイビッドはこう考えたのではないでしょうか。
「心のままに行動し、そのたどるところを追った結果
神の本来の計画よりも自分の計画の方が正しいと証明できるのではないか。
そうであるならば、結局のところは神に頼らずに
自分の考えをしっかり持って突き進めば
もし、その正しさで神を納得させることができたなら
神はそれを正当に評価し、自分にふさわしいご褒美で報いて下さるのではないか」と。
この映画に投げかけられているテーマは
一貫して「神はあなたに計画がある」というものです。
それは私も心底同意するところです。
勿論、これはキリスト教の神そのものを描いた映画ではありませんし
一般的に神と自分の関係を見直すきっかけの一つとして
ハリウッドらしく(?!)分かり易く描かれています。
この映画は久々に十分な昨晩のエンターテイメントになりました。
しかし、同時にこの観点に少々引っかかりを覚えました。
この映画の「神」は、自分に「計画」を立ててくれてはいるものの
デイビッド本人の願望を神自身が軽視しているように描かれています。
この「神」の「計画」に対して「嬉しい」「有り難い」「良かった」という
感謝や親近感を、私はまるで感じることがなかったことに気がつきました。
例えば、聖書を開いて読み進めていくときに展開される
私という個人に用意された計画、約束を思い起こすときの
その印象とは少し異なるのではないか。
そのような聖書の本質を現すようなエッセンスが欠けていた印象を持ちました。
一般的に、人はデイビッドのような「神観」を持っているのではないでしょうか。
もし本当に神がこの世に存在して
間違った方向に進まないように決断をし、状況を分析していくならば
神はその変化に気がついて下さるのではないか。
そしてその尺度に従ってご褒美を下さるのではないか。
私の日常にスポットライトを照らして
私の人生に必要なものや欠けているものを補充して下さるのではないか。
そうやって軌道修正をしながら
繁栄や健康などの幸福を人生に与え続けて下さるのではないか。
何よりも私たちの誠実さが問われている
その「神」の求めに応えられている限りは。
本当にそうなのでしょうか。
どれだけよい行いができたか、どれ程神にそれを証明できたか
それ以上に私たちが神との密接に関わり合う関係性を持つことが
何よりも必要であるということを私たちは見落としがちです。
それはこの言葉に集約されると言えます。
「恵」。その神の一方的なまなざしです。
私がよく引用し、また敬愛するC.S.ルイス氏がある日、オックスフォード大学のキャンパスで
宗教学の討論会の席に着いたときのことでした。
会場が彼に気がつき、こう問いました。
「先生、助言をお願いします。一体、キリスト教の何が
他宗教とは質を異にしているとお考えでしょうか」。
ルイス氏は即座に答えました。
「それなら単に『恵 ーグレイスー』の概念があるかないかです」。
「恵」は聖書のあちこちに散りばめられています。
恵は神が一方的に注いで下さり、同時に私たちが作り出せないものです。
そんな貴重なものが一体なぜ、誤解され、見落とされ、理解されていないのでしょうか。
聖アウグスティヌスはこう言います。
「人間の思いは初めから真っ直ぐ神に向いているわけではない」。
私たちの願望はまるで「アジャストメント」のデイビッドです。
自分の欲求に敏感で、人生の全体像を見ているつもり。
その自分の人生が前進するときに
神がサプライズを投入する必要性とタイミングに気がついてくれる。
正しい意識と誠実ささえ備えているのならば
神は振り向いて下さらないはずがない。
このような神観は実に主観的で、「神から見た自分」という視点が欠けています。
人は思っている以上に自分がよく見えてはいないのです。
自分はどれ程治療を必要とし、何と処方箋に書かれているかを分かっていないのです。
自分をどれだけ磨き、どれだけ努力を継続できるのかではないのです。
私たちは恵を理解し、その中に生きることを知らずにいるのです。
恵は能力や行動に比例して働くのではありません。
まず私たちは良いことをしたり、心を入れ替えたことで神の注目を引こうと考えます。
その努力が認められた時点で何かの願いが叶えてもらえるのかもしれない、と。
もし 神に計画があるのならば、そのコースから外れないように見守るのが
神の役目ではないのか。
それでは、なぜ善良さを証明できたときに、それに応答してくれないのか。
ふさわしいもので報い、願いを聞き届けたとのサインをどうして送ってくれないのだろうか。
実際、このように考える人たちは大勢おられます。
ふさわしい、必要だと思ったものを手に入れたい、それが何であっても。
こう考えるのは、私たちが欲するものを何時かのタイミングで与え続けるのが
神の役割であると考えているからではないでしょうか。
勿論、神は私たちが忠実かどうかを見ておられない訳ではありません。
しかしこれは聖書の語るメッセージではなく
そして恵という概念がまったく欠けた考え方でもあります。
恵は神が私たちに何かのふさわしいものを下さることではないのです。
受けるにふさわしくない自分にも拘らず
見返りのない一方通行の、しかも既に達成された愛の一つの形なのです。
私たちが必死で身につけようとする誠実さ、勤勉さ、高尚さなどを
問うているのではありません。
恵が恵であるのは人ではなく神が私たちになされたことに尽きるのです。
神や人のために何かをしたことから得る利益や報酬ではないのです。
もしそうであるならば、自分で頑張って得るものに様変わりしてしまい
もはや神様がらの贈り物である恵の意味そのものをなくしてしまいます。
もっとこの恵について知りたいのであれば
聖書の後半にある新約聖書、ガラテヤ人への手紙を開いてみて下さい。
決して長編の章ではありません。
キリストがすでにあなた自身のためにどのようなことを成し遂げられたと書かれているか
そのことに気を止めながら読み進めて下さい。
聖書の神はあなたが「良いこと」をするのを待ち続けている方ではないのです。
それは神があなたに求めていたことをキリストがすでに成し遂げて下さったからです。
神様はこの福音を覚え、心に留めて行くときに何とも言えない安らぎを与えて下さいます。
是非、キリストにある心の平和を受けて下さい。
一生懸命、頑張って、いい人になることを神様に証明しなくてもいいのです。
神が私たちに求めていたことをすべて、すでに成し遂げてくださったのがキリストです。
キリストご自身がすでに私たちが出来なかった生涯を歩んで下さったこと
その業を信じ、受け入れることで私たちを暗闇から救い出して下さり
代わりに人の愚かさ、不十分さ、高慢さの罰をその身にすべて受けて下さったのです。
むち打たれ、傷を負うためだけにお生まれになった方。
ただその御業により私たちが恩恵を被り
彼の健全さ、健やかさ、父なる神との直接的な、親密なつながりを
そのまま私たちに差し出すがためだけにです。
私たちのあらゆる罪科(犯罪という罪だけではなくて!)から辿るはずであった結末から
キリストによってすでにその刑を免れさせて下さった
キリストに信仰を置くときに、というのです。
これこそが福音、ゴスペル、グッドニュース、私たち、一人一人へのよき知らせなのです。
キリストの復活は失望に終わることのない希望へと私たちを誘うのです。