「パパ、ママ、月が私を追いかけてる!」
少し前のことです。
夜、外出先から家族と車で帰る途中
娘が私たちにこう言いました。
幼い頃の自分も
そう思ったことがあったな、、、
古い本をひも解いた
そんな感覚がよみがえってきました。
ガラス越しに後部座席から座って見える
大きなまんまるお月様が
娘の目には自分を追いかけているように
見えたのでしょう。
妻と顔を見合わせて
ほんわりした気分になりました。
「私を追うお月様」
これが彼女の世界観ならば
地球を取りまく全世界を
これからどう理解していくのでしょう。
「パパ、ママ、月が私を追いかけてる!」
少し前のことです。
夜、外出先から家族と車で帰る途中
娘が私たちにこう言いました。
幼い頃の自分も
そう思ったことがあったな、、、
古い本をひも解いた
そんな感覚がよみがえってきました。
ガラス越しに後部座席から座って見える
大きなまんまるお月様が
娘の目には自分を追いかけているように
見えたのでしょう。
妻と顔を見合わせて
ほんわりした気分になりました。
「私を追うお月様」
これが彼女の世界観ならば
地球を取りまく全世界を
これからどう理解していくのでしょう。
娘の一言
今も微笑ましく思い浮かべます。
そうです。親バカです。
今晩、ネットで
子どもに解る「視覚」「錯覚」の科学を
解説した事典でも探してみます。
しかし、一方で思います。
「動いているのは月じゃなくて地球の方だよ」
数年後には理解できることを
わざわざ夢を壊してまで
当たり前の常識を
今から教えようとしなくても
良いのかもしれません。
暫しのファンタジーの世界に
いっしょに浸るのもいいのかな、とか。
いずれにしても
人の見方とは奇妙なものです。
地球が自転している事実は
子どもには難し過ぎると思う私たち大人
小さい子の発想って純真で可愛いね、と
当然のように締めくくります。
子どもって、そうなんだよね、と。
以前、どこかに書きましたが
約30年間のシングル生活の間で
これまで保ってきたものが
結婚によって崩れることに
少なからず抵抗がありました。
何となしに心地いい生活。
そのままでの状態を結婚生活に持ち込んで
あまり変わることのない環境を
維持していたかったのかもしれません。
自分は中心
周りが変わればそれが一番。
結婚という決断は
先祖代々からの土地を売り渡す
こう言えば大げさですが
確かに妥協を強いられる感覚がありました。
その信念が何であったか
今ではもうどうでもいいことです。
先日、結婚して50年のある男性への
インタビューを観ていました。
「結婚当初はどうでした?」
「簡単な訳がないだろう。
何せ28年間も
世界は私中心に回っていたんだから。
妻だって28年間そうだった。
結婚するや、気づいたよ。
中心がふたつもあると
その世界は回らないってね」。
私は声を出して笑いました。
結婚で誰もが通るある地点。
夫や妻が土足で自分の領域に踏み込んだ
代弁するならこうでしょうか。
昔、アメリカで「チアーズ」という人気コメディ番組がありました。
「チアーズ」という飲み屋を舞台にした
このドラマの登場人物で
ノームという男性のキャラが大好きでした。
ノームは家に帰るのをいつも渋り
チアーズで時間をつぶしながら
仲間たちとわいわいにぎやかに過ごしています。
ある日長い一日を終えて
ノームが店に入ってきました。
いつもの自分の特等席に着こうとすると
すでに誰かが陣取っています。
「そこは俺の席だ」
「誰も座っていなかったから座ったんだ」
「いいや、いたよ。
昨日のこの時間、俺が座っていたんだ。
一昨日だってそうだ。その前の日もだ!」。
ノームの態度は夫婦関係に似ています。
誰かが馴染みの店に入り込み
座り慣れた席の後ろから
自分の背中を押している。
それに抵抗する自分。
結婚生活ではお互いが「お先にどうぞ」とは
なかなか言えなくなるものです。
言う側ではなく言われる側でいたいのです。
変わる立場ではなく
周りが変われば事足りる
居心地のいい場所で
自分を追う月でも眺めていたい
そう思うのが自我(エゴ)なのです。
数十年の独身生活を経るならば
誰でも自分の人生は自分のものだと
自然と思うに違いありません。
それだからこそ、誰であっても
他人の領域侵犯が怖いのです。
結婚の楽しさ
二人でいることの喜び
何かを手放すときに
それが自分の元に舞い込んできます。
神様が全宇宙の中心にいる、そう思えると
喪失感など大した痛みでもありません。
握っているものを手放すこと
それは神様からの招きです。
自分のもの、自分の縄張り
その類いの維持管理に
目を光らせていなくてもいいのです。
その席を神様に譲り渡したときに
聖書の言葉ははっきりと
あなたの生活の中に現れるでしょう。
「だれでも渇くものは
わたしのところにきて飲むがよい。
その腹から生ける水が
川となって流れ出るであろう」。
日々、限りない恵みを注がれる方がある。
「われわれは神のうちに生き、動き存在しているからである」。
使徒行伝17章 28節
娘の一言
今も微笑ましく思い浮かべます。
そうです。親バカです。
今晩、ネットで
子どもに解る「視覚」「錯覚」の科学を
解説した事典でも探してみます。
しかし、一方で思います。
「動いているのは月じゃなくて地球の方だよ」
数年後には理解できることを
わざわざ夢を壊してまで
当たり前の常識を
今から教えようとしなくても
良いのかもしれません。
暫しのファンタジーの世界に
いっしょに浸るのもいいのかな、とか。
いずれにしても
人の見方とは奇妙なものです。
地球が自転している事実は
子どもには難し過ぎると思う私たち大人
小さい子の発想って純真で可愛いね、と
当然のように締めくくります。
子どもって、そうなんだよね、と。
以前、どこかに書きましたが
約30年間のシングル生活の間で
これまで保ってきたものが
結婚によって崩れることに
少なからず抵抗がありました。
何となしに心地いい生活。
そのままでの状態を結婚生活に持ち込んで
あまり変わることのない環境を
維持していたかったのかもしれません。
自分は中心
周りが変わればそれが一番。
結婚という決断は
先祖代々からの土地を売り渡す
こう言えば大げさですが
確かに妥協を強いられる感覚がありました。
その信念が何であったか
今ではもうどうでもいいことです。
先日、結婚して50年のある男性への
インタビューを観ていました。
「結婚当初はどうでした?」
「簡単な訳がないだろう。
何せ28年間も
世界は私中心に回っていたんだから。
妻だって28年間そうだった。
結婚するや、気づいたよ。
中心がふたつもあると
その世界は回らないってね」。
私は声を出して笑いました。
結婚で誰もが通るある地点。
夫や妻が土足で自分の領域に踏み込んだ
代弁するならこうでしょうか。
昔、アメリカで「チアーズ」という人気コメディ番組がありました。
「チアーズ」という飲み屋を舞台にした
このドラマの登場人物で
ノームという男性のキャラが大好きでした。
ノームは家に帰るのをいつも渋り
チアーズで時間をつぶしながら
仲間たちとわいわいにぎやかに過ごしています。
ある日長い一日を終えて
ノームが店に入ってきました。
いつもの自分の特等席に着こうとすると
すでに誰かが陣取っています。
「そこは俺の席だ」
「誰も座っていなかったから座ったんだ」
「いいや、いたよ。
昨日のこの時間、俺が座っていたんだ。
一昨日だってそうだ。その前の日もだ!」。
ノームの態度は夫婦関係に似ています。
誰かが馴染みの店に入り込み
座り慣れた席の後ろから
自分の背中を押している。
それに抵抗する自分。
結婚生活ではお互いが「お先にどうぞ」とは
なかなか言えなくなるものです。
言う側ではなく言われる側でいたいのです。
変わる立場ではなく
周りが変われば事足りる
居心地のいい場所で
自分を追う月でも眺めていたい
そう思うのが自我(エゴ)なのです。
数十年の独身生活を経るならば
誰でも自分の人生は自分のものだと
自然と思うに違いありません。
それだからこそ、誰であっても
他人の領域侵犯が怖いのです。
結婚の楽しさ
二人でいることの喜び
何かを手放すときに
それが自分の元に舞い込んできます。
神様が全宇宙の中心にいる、そう思えると
喪失感など大した痛みでもありません。
握っているものを手放すこと
それは神様からの招きです。
自分のもの、自分の縄張り
その類いの維持管理に
目を光らせていなくてもいいのです。
その席を神様に譲り渡したときに
聖書の言葉ははっきりと
あなたの生活の中に現れるでしょう。
「だれでも渇くものは
わたしのところにきて飲むがよい。
その腹から生ける水が
川となって流れ出るであろう」。
日々、限りない恵みを注がれる方がある。
「われわれは神のうちに生き、動き存在しているからである」。
使徒行伝17章 28節