「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか」。
マタイによる福音書 7章 4節
人間関係には波があります。
特に結婚したご夫婦の
はじめの数年は脱線の連続です。
勿論、そうでないご夫婦もいらっしゃいます。
それはそれでよいのです。
しかし脱線しない方がいいと申している訳でもありません。
置かれたその場において
お二人が学び、向き合い、より知り合うことが
もっとも結婚生活のスタート地点で大切です。
この期間を抜きにしては
数年後、十数年後、数十年後の夫婦関係に
どれほどの違いをもたらすでしょうか。
考えれば考えるほど
初期段階での二人の基盤作りが
貴重な耕す期間であると思えてなりません。
新婚生活が思ったような
わくわくした楽しい時間ではないことに
焦り、苛立ち、相手を責め、自己憐憫に浸る。
それは多くのご夫婦が通るプロセスです。
交際しているとき
相手の好みや希望に敏感で
嫌なことに目をつぶる我慢も多少知っています。
器を構えて受け止める態勢も準備万端です。
ある地点に来るまでは。
次第に自分中心さが
日常に顔を出し始めます。
当初はありえなかった言動。
優しい言葉掛けが少なくなり
我慢する自分を不憫に思う。
自分の興味や関心
不満に自然に敏感になる。
彼や彼女に夢中だった以前
何でもしてあげたい
一番いいもので満たしてあげたい
喜ぶことを言ってあげたい
そう思っていたにも拘らず
その対象が当の自分に向くようになる。
一体どうしたことでしょうか。
マタイによる福音書 7章 4節
人間関係には波があります。
特に結婚したご夫婦の
はじめの数年は脱線の連続です。
勿論、そうでないご夫婦もいらっしゃいます。
それはそれでよいのです。
しかし脱線しない方がいいと申している訳でもありません。
置かれたその場において
お二人が学び、向き合い、より知り合うことが
もっとも結婚生活のスタート地点で大切です。
この期間を抜きにしては
数年後、十数年後、数十年後の夫婦関係に
どれほどの違いをもたらすでしょうか。
考えれば考えるほど
初期段階での二人の基盤作りが
貴重な耕す期間であると思えてなりません。
新婚生活が思ったような
わくわくした楽しい時間ではないことに
焦り、苛立ち、相手を責め、自己憐憫に浸る。
それは多くのご夫婦が通るプロセスです。
交際しているとき
相手の好みや希望に敏感で
嫌なことに目をつぶる我慢も多少知っています。
器を構えて受け止める態勢も準備万端です。
ある地点に来るまでは。
次第に自分中心さが
日常に顔を出し始めます。
当初はありえなかった言動。
優しい言葉掛けが少なくなり
我慢する自分を不憫に思う。
自分の興味や関心
不満に自然に敏感になる。
彼や彼女に夢中だった以前
何でもしてあげたい
一番いいもので満たしてあげたい
喜ぶことを言ってあげたい
そう思っていたにも拘らず
その対象が当の自分に向くようになる。
一体どうしたことでしょうか。
私が高校生の時です。
好きな教科の一つが美術でした。
中でも陶芸の時間は至極のひとときでした。
これからどうかたちを作ろうか
時を忘れて夢中になったものです。
ろくろに粘土をのせ
イメージしながら回していきます。
簡単そうに見えるこの作業は
実際はそうではありません。
かたちや表面のデザインの考案。
粘土の手触りも様々です。
デコボコができ、空気の穴があき、そこを埋め
加減しながら水分を足す。
土が乾くと粘り気がすぐになくなってしまいます。
聖書に陶器士が粘土で作品を作る
神様と人間の関係を例えた箇所があります。
神様はイメージをもって一人一人を作られました。
作り手がそのイメージを
作品に反映し完成させるように
神様は私たちのうちに働きかけ
その業を興そうとなさっています。
本題に戻ります。
なぜ、結婚生活が始まると
出会った当初とは違う関係に
変化するのでしょうか。
夫、妻に対して思いやりや愛情の表現が
なぜぎこちなくなり
相手に向いていた気持ちが
自分に向くようになるのでしょうか。
粘土に水分が与えられないと
固く、ひび割れていくように
私たちも神様から捏ねられて
整えられる必要があるのです。
恵みは私たち人間が
とてつもなく必要としているものです。
自覚があるかどうかは別として。
それは自分で作り出すことができず
また、私たちの分相応を
はるかに超えた価値あるものです。
恵みという水分なしには
器の滑らかな曲線や
風合いは出来上がらないのです。
私たちの心の状態が
夫、妻の見方に影響を及ぼします。
変わるのは自分ではなく相手であると
自然に納得し、信じています。
こうなった原因は相手にある。
今がいい状態ではないことは解るが
こうならざるを得なかったのだと。
例えるなら、ひどい近視の人が
眼鏡をかけずに車の運転をするようなものです。
何が二人の関係の妨げになっているのでしょうか。
相手に批判的になる。欠点が目につく。
自分のその判断が正しいと過信するようになる。
そこにこそ落とし穴があることが見えずに。
冒頭で引用した聖書の箇所は
お世辞にも「ジーンときた」とは言えない内容です。
三本の指に入る愛誦聖句でもありません。
それは読む度に否応なく
私の心の姿勢を鋭く突かれるからです。
お気に入りの眼鏡が合ってないよと
誰かに指摘されているような感覚です。
「他人の目にあるちりを見るな。むしろ、はじめに自分の目の中の梁を取り除くがよい。そうすればはっきり見えるようになり相手のちりを取り除けるだろう」。
マタイによる福音書 7章 5節
聞いていて、多少不愉快になるでしょうか。
見えているようで見えていない自分。
自分の欠点は霧がかかって見えるのです。
夫、妻の欠点ばかりに気を取られ始めると
自分の言い分が自ずと正当化されます。
それは同時に自分に変化を来す機会を
失ってしまうことです。
神様は心を柔軟にする手段として
「恵み」を用いられます。
それを受け取ったときほど
私たちの意地やプライドを溶かし
謙虚にさせるものはありません。
受けるにふさわしくないものに
注がれる一方的な愛です。
恵みを知ると
ありのままの自分が受容されることを体験します。
周囲へ抱いていた
不満の度合いが小さくなり
周りへの感謝が膨らみます。
そう思えると
日々、その恵みが必要なことに気がつきます。
自分が満たされたかのみならず
他者への寛容な気持ちが現れ
神様との直接のつながりを持つのです。
聖書の言葉、それが示す指針。
行く先に霧がかっていたとしても
神様が私たちの歩むべき道を開いて下さる。
その恵みの味わい。
神様の約束。
私たちを捨てず、離れることもせず
信じる者に与えられる希望と平安。
神学者であるポール・トリップ氏がこう書いています。
「ここに希望がある。
恵みは自己正当化を押しのけ
我々の目を開き、心を和らげる。
自分が足りないものであるから
その助けが必要であると
謙虚に認められるようになる。
心貧しく、弱い者であることをも。
それゆえに潔く助けを求め
諸手で歓迎する。
人の評価を求める以前に
己の罪を嘆きたくなる。
そのとき恵みが訪れ
この日常に働きかける」。*1
何年夫や妻と連れ添ったか
時間の長さを誇るだけではなく
新しい眼鏡で人生を見直すことができるのです。
自分の利益に動くように
物や人を見ていた視点からの解放です。
使徒パウロによる一節をご紹介します。
「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。
コリント人への第二の手紙 12章 9節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ *1 著者訳
好きな教科の一つが美術でした。
中でも陶芸の時間は至極のひとときでした。
これからどうかたちを作ろうか
時を忘れて夢中になったものです。
ろくろに粘土をのせ
イメージしながら回していきます。
簡単そうに見えるこの作業は
実際はそうではありません。
かたちや表面のデザインの考案。
粘土の手触りも様々です。
デコボコができ、空気の穴があき、そこを埋め
加減しながら水分を足す。
土が乾くと粘り気がすぐになくなってしまいます。
聖書に陶器士が粘土で作品を作る
神様と人間の関係を例えた箇所があります。
神様はイメージをもって一人一人を作られました。
作り手がそのイメージを
作品に反映し完成させるように
神様は私たちのうちに働きかけ
その業を興そうとなさっています。
本題に戻ります。
なぜ、結婚生活が始まると
出会った当初とは違う関係に
変化するのでしょうか。
夫、妻に対して思いやりや愛情の表現が
なぜぎこちなくなり
相手に向いていた気持ちが
自分に向くようになるのでしょうか。
粘土に水分が与えられないと
固く、ひび割れていくように
私たちも神様から捏ねられて
整えられる必要があるのです。
恵みは私たち人間が
とてつもなく必要としているものです。
自覚があるかどうかは別として。
それは自分で作り出すことができず
また、私たちの分相応を
はるかに超えた価値あるものです。
恵みという水分なしには
器の滑らかな曲線や
風合いは出来上がらないのです。
私たちの心の状態が
夫、妻の見方に影響を及ぼします。
変わるのは自分ではなく相手であると
自然に納得し、信じています。
こうなった原因は相手にある。
今がいい状態ではないことは解るが
こうならざるを得なかったのだと。
例えるなら、ひどい近視の人が
眼鏡をかけずに車の運転をするようなものです。
何が二人の関係の妨げになっているのでしょうか。
相手に批判的になる。欠点が目につく。
自分のその判断が正しいと過信するようになる。
そこにこそ落とし穴があることが見えずに。
冒頭で引用した聖書の箇所は
お世辞にも「ジーンときた」とは言えない内容です。
三本の指に入る愛誦聖句でもありません。
それは読む度に否応なく
私の心の姿勢を鋭く突かれるからです。
お気に入りの眼鏡が合ってないよと
誰かに指摘されているような感覚です。
「他人の目にあるちりを見るな。むしろ、はじめに自分の目の中の梁を取り除くがよい。そうすればはっきり見えるようになり相手のちりを取り除けるだろう」。
マタイによる福音書 7章 5節
聞いていて、多少不愉快になるでしょうか。
見えているようで見えていない自分。
自分の欠点は霧がかかって見えるのです。
夫、妻の欠点ばかりに気を取られ始めると
自分の言い分が自ずと正当化されます。
それは同時に自分に変化を来す機会を
失ってしまうことです。
神様は心を柔軟にする手段として
「恵み」を用いられます。
それを受け取ったときほど
私たちの意地やプライドを溶かし
謙虚にさせるものはありません。
受けるにふさわしくないものに
注がれる一方的な愛です。
恵みを知ると
ありのままの自分が受容されることを体験します。
周囲へ抱いていた
不満の度合いが小さくなり
周りへの感謝が膨らみます。
そう思えると
日々、その恵みが必要なことに気がつきます。
自分が満たされたかのみならず
他者への寛容な気持ちが現れ
神様との直接のつながりを持つのです。
聖書の言葉、それが示す指針。
行く先に霧がかっていたとしても
神様が私たちの歩むべき道を開いて下さる。
その恵みの味わい。
神様の約束。
私たちを捨てず、離れることもせず
信じる者に与えられる希望と平安。
神学者であるポール・トリップ氏がこう書いています。
「ここに希望がある。
恵みは自己正当化を押しのけ
我々の目を開き、心を和らげる。
自分が足りないものであるから
その助けが必要であると
謙虚に認められるようになる。
心貧しく、弱い者であることをも。
それゆえに潔く助けを求め
諸手で歓迎する。
人の評価を求める以前に
己の罪を嘆きたくなる。
そのとき恵みが訪れ
この日常に働きかける」。*1
何年夫や妻と連れ添ったか
時間の長さを誇るだけではなく
新しい眼鏡で人生を見直すことができるのです。
自分の利益に動くように
物や人を見ていた視点からの解放です。
使徒パウロによる一節をご紹介します。
「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。
コリント人への第二の手紙 12章 9節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ *1 著者訳